第3章 フォー・レター・ワード
https://gyazo.com/2f7d45fa32f40e58d8b72e4497bfd4ab
たった4文字しかない
真珠が連なったネックレス状の構造をしている
DNAを強い酸の中で熱すると、ネックレスの連なりが切断され、真珠玉はバラバラになる
真珠はたった4種類しか存在していなかった
DNAは所詮、細胞内の構造を支えるロープ程度の役割しかないのではないかとみんなは思っていた
細胞を包んでいる膜をアルカリ溶液で溶かし、上澄み液を中和して塩とアルコールを加えると、試験管内に白い糸上の物質が現れる
ガラスの棒でこの糸をからめとれば、DNAを抽出したことになる
DNAのごく一部はR型菌の菌体内部に取り込まれる
するとR型菌はS型菌に変化し、肺炎を引き起こすようになる つまり、DNAという物質は確かに生命の形質を転換する働きがある 純度のジレンマ
生命科学を研究する上で、最も厄介な陥穽は、純度のジレンマという問題
生物試料はどんな努力を行って純化したとしても、100%純粋ではありえない
常に微量の混入物がつきまとう
S型菌から取り出してきたDNAは、試験管の中で人工的に合成された化合物ではない
何万種類ものミクロな構成成分からなる生きた細胞から取り出してきたもの
DNAに付着している様々なタンパク質や膜成分が一緒に存在しているはず
菌の性質を変えるという形質転換作用は、DNAそのものではなくコンタミネーションに起因しているのかもしれない
この可能性を排除するために、研究者はあらゆる努力をして可能な限り純化しなければならない
エイブリーは自分の研究成果を誇示したり、ことさら外に向かって宣伝するようなことは一切しなかった
ただ一歩一歩、得られたデータから導かれる控えめな推論を記述した論文を投稿していった
エイブリーは謙虚だったが、しかし、その批判者たちは容赦なかった
形質転換物質、つまり遺伝子の本体がDNAであることを示唆するエイブリーのデータに最も辛辣な攻撃を加えたのは、同じロックフェラー医学研究所の同僚、アルフレッド・ミルスキーだった 彼は執拗にコンタミネーションの可能性を指摘した
資料のDNAには傷をつけずに、そこに混入するタンパク質を取り除くにはどうすればよいだろうか
酵素は特異的にタンパク質だけに作用してそれを破壊する
この処理の後も、形質転換作用は残っていた
DNA分解酵素によって形質転換作用は消失した
このような追求を詰めていっても、批判者の攻撃はなかなか弱まらなかった
「タンパク質分解酵素の処理で形質転換作用が消えないのは、遺伝子として機能しているタンパク質画素の酵素作用に抵抗性を示す種類のものだからである」 「DNA分解酵素によって形質転換作用が消失するのは、その酵素自体に、タンパク質分解酵素が混入しているからかもしれない」
こうなると議論は混迷を深めるばかりとなる
100%の純化が理論的に不可能な生命科学にあっては、このような反論に有効に反証するすべがない
コンタミネーションは、たとえば、先に触れた野口英世による病原体特定の研究にも不可避的に付随する問題といえる 光学顕微鏡では像を結ぶことのできないウイルスのようなものが、微量混入している可能性を排除できない
「ふるまい」の相関性
純度のジレンマを解決しうる方法は、物質の「ふるまい」を調べるという方法
純度のジレンマは、純化のプロセスと試料の作用との間に同じ「ふるまい」方が成り立つことを証明すればよい
DNAの含有量を高めると、形質転換作用がそれに応じて増強されるということを示す
このとき、DNAの純度と形質転換作用とが相関的にふるまっていることになる
もし、試料に混入している物質が、形質転換作用をもたらすなら、DNAの純度が上昇するにつれ、コンタミネーションの程度は低下するから、形質転換作用も低減するはず
つまり、その場合にはDNAと形質転換作用との間にふるまいの相関性はない
研究の質感
残念ながら、エイブリーの時代にはここまで緻密な、物質のふるまい方の動的な相関関係を示す実験は実現できなかった
一つには形質転換作用を示す実験が、ある意味で、菌の気まぐれによるため、その作用の強弱を数値として明確に示し得なかった
たくさんいるR菌のごくわずかな菌体がたまたまS菌由来のDNAの重要部分を取り込んで、それがうまく作用して初めて、形質転換が生じる それでもエイブリーの論文を紐解くと、彼はできるだけこの現象を定量化しようと工夫を凝らしていた過程を読み取ることができる
結局、エイブリーが正しく、ミルスキーは間違っていた
おそらく終始、エイブリーを支えていたものは、自分の手で触られている試験管の内部で揺れているDNA溶液の手応えだったのではないだろうか
DNA試料を純化して、これをR型菌に与えると、確実にS型菌が現れる
このリアリティそのものが彼を支えていたのではないか
別の言葉で言えば、研究の質感といってもよい
直感とかひらめきといったものとはまったく別の感覚
往々にして、発見や発明が、ひらめきやセレンディピティによってもたらされるような言い方があるが、私はその言説に必ずしも与しない
むしろ直感は研究の現場では負に作用する
多くの場合、潜在的なバイアスや単純な図式化の産物であり、それは自然界の本来のあり方とは離れていたり異なったりしている
形質転換物質について言えば、それは単純な構造しか持ち得ないDNAであるはずがなく、複雑なタンパク質に違いないという思考こそが、直感の悪しき産物であったのだ あくまでコンタミネーションの可能性を保留しつつも、DNAこそが遺伝子の物質的本体であることを示そうとしたエイブリーの確信は、直感やひらめきではなく、最後まで実験台のそばにあった彼のリアリティに基づくものであった、そう私には思える
生命現象全般を貫く構造
ロックフェラー大学の人々にエイブリーのことを語らせると、そこには不思議な熱が宿る
誰もがエイブリーにノーベル賞が与えられなかったことを科学史上最も不当なことだと語り、ワトソンとクリックはエイブリーの肩に乗った不遜な子どもたちに過ぎないと罵る
早熟な天才、あるいは若い一時期だけが、研究上のクリエイティビティを発揮できる唯一のチャンスであると喧伝される科学界にあって、遅咲きのエイブリーはここでもある種の慰撫をもたらしてくれるアンサング・ヒーローなのだ
DNAにはその配列の中に、生命の形質を転換させるほどの情報がカキコmれている
A, C, G, Tで表されるアルファベットは、科学用語でいうとヌクレオチドと呼ばれるDNAの構成単位 この原理は、生命現象全般にわたって貫かれている構造でもある
当初、遺伝子の本体と目されていたタンパク質も、その構造原理はDNAと極めて類似している
タンパク質は紐状の高分子であり、その紐には数珠玉が連なっている
タンパク質の紐を構成するアミノ酸は20種類もある
つまりアミノ酸は、本来のアルファベットに匹敵する多彩さをもってタンパク質の文字列を紡ぎ出すことができる
タンパク質は生命活動そのものを作動し、制御し、反応させる実行者である
table: DNAとタンパク質の対応関係
高分子 構成単位 種類 機能
DNAはどのようにして形質を運ぶのか
ところが、やがてこれらの薬物が効かない細菌が出現しだした
人類は微生物戦争の前線をじりじりと後退させられている
耐性菌は、抗生物質を分解したり、あるいは、別の無害な物質に変化させてしまう
このような能力は、異なる細菌の間にでも急速に広がる
この背景には、細菌の間でDNAのやりとりがあることが知られている
耐性菌から非耐性菌へとDNAが手渡されると、つまり遺伝子が水平に移動すると非耐性菌は耐性菌となる
これはエイブリーの実験と同じ現象
ではDNAはどのようにして形質を運んでいるのか
DNAが運んでいるのはあくまで情報であって、実際に作用をもたらすのはタンパク質
抗生物質を分解するのは酵素と呼ばれるタンパク質であり、病原性をもたらす毒素や感染に必要な分子も皆、タンパク質 エイブリー亡き後、科学者たちの前に立ちはだかったのは情報の壁
たった4種類しか文字のないDNAがどうのようにして20種類ものタンパク質の設計図を担いうるのか
これはわかってみると実にシンプルなコナンドラムだった
4種類のうち2つのDNA文字が、1つのタンパク質文字に対応するとすれば?
2つのDNA文字が作りうる順列組み合わせは4×4で16通り
3つのDNA文字で、1つのタンパク質文字に対応すれば
4×4×4で64通りもの順列組み合わせを作り出せる
自然界が採用したのもこの方法だった
一方で、たった4種しかないDNA文字が新たな変化の可能性までをも、そのシンプルさゆえに容易に生み出しうるということも見逃すことのできない真実だった
突然変異、ひいては進化そのものも、DNAの文字上に起きたごく僅かな変化が、タンパク質の文字を書き換え、それが場合によってタンパク質の作用に大きな変更をもたらすことで引き起こされる